アンニョンハセヨ ヨン様の国でちょっとかわったセカンドライフ体験記

塗料のオンラインショップ
1616(いろいろ)ネット




ファーストライフ 4  沈滞と転機 40〜50代                ▲UP
最近徳島に逆里帰りし、昔の工場を訪れたとき、自分たちの立てた工場が、メイン工場として隆々と稼動しているのを見て自分の青春時代の証を再認識したような気分になります。

しかし40代に入ると、次第に管理職的な役割を強いられるようになり、自分的には気分がだんだん沈滞していきました。特に50代に本社に転勤してからは、まあ言ってみれば<酸素不足で息苦しく不完全燃焼>の時代であったと思います。

この時期に、私にセカンドライフを決意させるいくつかのことがありました。

【某長老の一言】

化繊協会の某長老と私たちスパンデックス技術委員たちが大阪の<美々卯>で、有名なうどんすきをかこんで懇談会をやっていたんですが、私たち若造(定年間際の長老から見て40代の私たち)がつい調子に乗って大口をたたいているのを、ちょっととがめ立てるような口調でこうおっしゃったんです。
 
「あなたがたは、今はB社はC社や部長や課長などといった肩書きが付いているから世間からちやほやされたりするんですよ。もしそうゆう肩書きが全部とれたらどうでしょう。自分の名前だけで、果たしてどれぐらいの力があるんでしょうかね?」

これは随分しんらつな言い方だったんで、座が一瞬しらけかけたんですが、すぐにこの苦言が次のテーマになって「石黒さんは何か出来る?」「○○さんは?」「○○さんは?」・・・ということになり、結局は、誰もたいして能がないなという結論になったんです。

それ以後、このことが私の脳の一部にずっとインプットされたままになったような気がします。

まさに<良薬口に苦し>

「ヤンニャクコウグ」

【1995年の出来事】

1990年代に入り、会社生活の最終章になって私はいろいろな事故に見舞われこれもセカンドライフ考える契機になったように思います。
特に1995年

この年の1月17日に阪神大震災、3月20日に地下鉄サリンにおそわれたんです。おまけにこの年の9月には孫を助けようとしての落下事故で左腕2箇所と肋骨の複雑骨折という大怪我をしてしまいました。

いずれも命を失ってもおかしくない状況でしたが、不幸中の幸いというか、何とか生きながらえております。わたしは元来信心深いほうではありませんが、これらのことを契機に神仏の存在を感じて仏教を信心するようにもなりました。つまり<罪深い人生を送ってきたお前はまだ死なせるわけには行かないよ。もっと生き長らえて多少は世の中の役に立つことをしなさい>とのご託宣が聞こえるような気がしたんです。

これと前後して韓国の会社との取引が結構ありまして、せめて挨拶ぐらいは韓国語でと考えてハングルを勉強しはじじめたんです。ところが私はどういうわけかやり始めるとどんどん深みにはまってしまうほうで、また病がこうじてしまったんですね。まだ今のような韓流ブームが起きる前でしたから、周りの人にわからないようにこっそりやっておりました。

サリン事件で入院中のときも目が見えないのでもっぱらCDでハングルの勉強ばかりしていたものですから、めきめき実力が上がりました。

作家の村上春樹さんがサリン事件のドキュメント<アンダーグラウンド>を執筆された時、ロイヤルパークホテルでヒアリングのためにお会いしたのですが、そのときなにげなく韓国の諺を口走ってしまったんです。それは<殴られた人は痛いけど、本当に心が痛むのは殴った人の方だ>という言葉で韓国語では、



「テリン ノムン タリルル モッポッコチャド マジュン ノムン タリルル ポッコ チャンダ」

と言うんですが、これがお分かりになる方は韓国語中級以上の実力があると思います。この本が出版されて村上春樹さんのサイン入りの感謝状とともに贈られてきたのを見ると、この韓国語がタイトルになっていたのでびっくりしました。

今までこっそり勉強してきたのに社内のみんなから「石黒さんてそんなに韓国語が上手だったんですか」と買いかぶられて弱りました。

このへんも、韓国に行って本当に上手になろうと思ったきっかけになっているんでしょう。

だけどただの留学だけでというわけにもいかないので何か仕事をしながらと考えたんですが先ほど書いたようにあまり能がない・・・・考えあぐねた末に『ああそうだ、私には日本語ができる』だったんですね。ただ、もちろん日本語が出来るだけでは日本語教師にはなれません。一応日本語教師養成学校に1年通って、若い人たちに混ざって技術を習得しました。その後、仕事を通じて懇意になっていたある韓国人に、韓国最大の日本語学校の理事、キム氏を紹介してもらい渋谷ではじめてお会いしたところ、ビジネス日本語の先生をちょうどさがしていたところですということで、とんとん拍子に話が進んで、1997年2月に韓国に渡ることになったわけです。